なにも考えずに燗酒に気持ちよく浸る
気がついたら燗酒を飲んでいた。自然に燗酒を好きになっていた。
「火弖ル吉祥寺本店」で飲んでいると、そんな言葉がよく聞こえてくる。
頭が痛くなるような粗悪な日本酒を飲んできた中高年にはじまり、二日酔いのイメージ先行で日本酒を避けてきた若者まで、この店でどれほどの客がいっぱしの燗酒党に生まれ変わったことだろう。
とはいえ、店主の小倉拓也さんは押しつけるでもなく、燗酒についてこんこんと語るでもなし、導きはとてもさりげなく、ただ間口をぽっかり大きくして待っていてくれる。酒の品書きを見れば、その間口はいかに広くゆるーいのかが分かるだろう。
メニュウの一部をあげれば、生ビール、レモンサワー、ボール、酎ハイプレーン、トマトハイ、ホッピーなどあらゆる酒類があり、なかには燗酒を飲まずに帰るひともいる。でも、それでもいいよ、と感じさせるような柔軟なスタンスにこそ、主人の矜持を感じる。
日本酒の品書きには、コップ酒、正一合とだけしかない。
だが、店の入口に顔を向けるようにしてずらりと置かれているのは、玉櫻、日置桜、睡龍、白隠正宗、旭若松など燗酒愛好家ならばちっとばかし悦にはいりたくなるほどの品揃えだ。なのに、小倉さんは燗酒の注文を受けても、ウンチクも細かいことも何もいわない。
しっかりめですか、軽いのがいいですか、少し熱めにつけましょうか、と、まるで天気の話をするかのように、いたって普通に客とぽつりぽつりと言葉を重ね、もくもくと燗をつけてはだまってテーブルに徳利を置く。そして、すっとその場を離れて厨房へ引っこむ。まるで黒子のように。
「燗酒は意識して飲むもんじゃないですよ。銘柄がどうのじゃなく、なにも考えずにラクに飲んでほしい。だから、僕はもっと飲み手の気持ちに寄りそいたいんです。今日はどんな味わいの、どんな温度の燗酒がいいのかお客さんの気持ちがわかるお燗番を目指しています。知らないうちに、おいしいなーって思ってくれたらうれしいから」
ふだん、店主はなにも語らない。しかし、店主から酒を受けとった客は、盃を口につけた瞬間に誰もが目尻をさげて穏やかな表情になる。おいしいねえ、あったまるねえ、と。店内にじわっと響く、客がよろこぶ小さいつぶやきが耳に心地いい。
火弖ル吉祥寺本店
コの字カウンターを配した大衆酒場。こちらに来たらぜひいただきたい燗酒のほか、ビールにホッピー、レモンサワーなど色々な酒を飲めるのが楽しい。モツ煮込みやハムカツ、ニラ玉など奇をてらわない酒がすすむ肴もたくさんあって魅力的。
東京都武蔵野市吉祥寺本町1-30-14 0422-23-8033
16時〜24時 不定休

写真 村田 圭
http://keimurata.format.com
取材・文/山内聖子 呑みますライター・SSI認定唎き酒師
〝夜ごはんは米の酒〟が
『蔵を継ぐ』(双葉社)
筆者と同世代の造り手5人の酒蔵を継ぐまでの軌跡を記したノンフィクション。親の大きな負の遺産を抱えながら奮闘し、今日の日本酒人気を生み出した、知られざる彼らの熱き想いと素顔に迫る。
掲載蔵元:冩樂、廣戸川、白隠正宗、十六代九郎右衛門、仙禽
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